私は1966年生まれなのですが100年前の1866年に堺市堺区に河口定次郎という方が生まれました。のちに「チベット旅行記」を刊行した河口慧海さんです。
彼は日本や中国の漢語仏典に疑問を感じて本来の教えの意味がわかるチベット語訳仏典の入手のため、当時厳重な鎖国体制であったチベットに行きチベット語訳仏典を日本に持ち帰ることを成し遂げています。
鎖国体制のためネパールからチベットへ向かう山岳路での密入国となったのですが、リウマチもあって過酷な旅を強いられます。
私は左大腿骨深部静脈血栓にかかり左ふくらはぎに小判大の皮膚潰瘍があります。皮膚科の医師からは「立っているだけで治らない」と言われているのですが、それでは仕事ができないので「走らない」ように生活してきました。
河口慧海さんのリウマチの痛みがあってもチベットへ向かう山越えの旅をされたことを思うと、なんともふがいなさを感じます。どうにかして河口慧海さんのような強い心を持ちたいと思います。
河口慧海さんの「チベット旅行記」から何節かをご紹介します。
釈迦牟尼如来が至尊の王位と金殿玉楼すなわち天下の富貴を捨てて破衣乞食の出家となって我ら一切衆生のために身命を抛って御修行せられたことを思いますと、我らの苦労は何でもないことと容易に決心がつきます。まことにありがたいことでこの後とてもチベット旅行中いろいろの困難が起りましたが常に釈迦牟尼仏を念うてその困難を忍んだことであります。
私がいよいよ出立の場合になると世の中の人は「彼は死にに行くのだ、馬鹿だ、突飛だ、気狂いだ」といって罵詈するものがあったです。もっとも私の面前へ来てそういう事を言うてくれた人は信実に違いないが、蔭で嘲笑って居た人は私の不成功をひそかに期して居った人かも知れないけれども、それらの人も私に縁あればこそ悪口を言ってくれたのでかえってその悪口が善い因になったかも知れない。
皆そうとは言えんが私の出遇うたモンゴリヤ人には怒り易い人が多くって閉口しました。また怒るということは馬鹿の性癖であると悟りまして私はその後辱めに逢うても忍ぶという心を養成した訳でございます。
およそこの世の中というものは純粋の親切ばかりで交際するということはほとんどむつかしいものと見える。利益の上の関係あるいは愛情の関係がなければ、交際は円満にして行くことはむつかしいものと見える。ツァーラン村に居る間に深くその事を感じました。私はただ普通どの人に対しても親切に尽すというつもりで居るのです。ところがその親切を誤解して私の夢にも思い寄らぬ事を言う者がありましたがそれは余りくだくだしゅうございますから省略致します。
私がツァーランに居る間に全く酒を罷めさした者が十五人、それからこの村では煙草の葉を噛んでその辛い汁を吸い込むことが盛んに行われて居りますが、私が宗教上から説き付けて罷めさした者が三十人ばかりありました。それはいずれも私が病気を診察をして薬を与えた人々で、その薬代の代りに禁酒禁煙の約束を貰うたのでございます。
今日は殊にこの国に来たところの目的を達した訳ですから何となく喜びの感に堪えず、巍々たる最高雪峰ゴーリサンガも一際妙光を満空に放ち洋々乎として和楽するがごとくに見えて居ります。我が願いのかくも満足に成就したのは正しく仏陀世尊の妙光裡に接取せられて居るからであると深く内心に感謝し、紀念のために歌を作りました。
昨日まで如何になりゆく我身ぞと
なやみし夢のとけし雪山
誠こそ手段のなかの方便なれ
事成らぬともまことなるゆゑ
いづくにか仏のゐまさぬ所やあると
眺むる空にひかる雪山
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